日曜日の夕方、京都市内をなんとなく歩いていたら、ぽつぽつと雨が落ちてきた。
ほんの少し湿った風が肌をなでていく。そういえば、祇園祭の季節だった。なんだかんだ毎年来ているけど、何度見ても山鉾が建っていく様子というのは飽きない。まるで、毎年同じ話を聞きながら、同じところで笑ってしまう落語みたいなものだ。
河原町通のあたりを歩いていると、建ちかけの鉾がひょっこり顔を出している。あれ、まだ完成していないのね。と思いつつ、その未完成な姿が、むしろ「これから始まるぞ」という息づかいを含んでいるようで、ちょっと好きだったりする。

郭巨山といえば、中国の孝子伝説をもとにした山で、親孝行のあまり自分の子を…というなかなかヘビーな逸話が背景にある。そんなちょっと重たいストーリーを抱えながらも、提灯の灯りはふわりと優しくて、まるで昔話の中の登場人物たちが「まぁまぁ、お話だから」と肩の力を抜いて語ってくれているようだった。
町をさらに歩いていると、太子山が見えてきた。
あれは聖徳太子を祀る山で、十七条憲法のあの太子さんである。何を隠そう、わたしは太子山の提灯の並びが大好きなのだ。整然としているのに、どこか愛嬌がある。まるで町家の玄関先に揃えられた下駄のような安心感がある。

太子山のあたりは、細い道の奥にひっそりと佇んでいるせいか、人通りも少なく、しっとりとした空気が漂っていた。祭りといえばわっしょいと賑やかなイメージだけど、こうしてひっそりとした山鉾を見るのも、またいいものだと思う。あのしずけさは、夜の茶碗に注いだぬる燗のように、じわりと心に沁みてくる。
本番の宵山は月曜日からということで、人の出もまだ控えめだった。これはこれで嬉しい誤算。
小さな和菓子屋さんの前に並ぶ水まんじゅうが涼しげに見えて、つい買ってしまった。袋の底に沈む氷の音が、なんだか風鈴みたいに聞こえた。ちょっとだけほろ酔い気分だったのもあるかもしれないけど。
そうそう、祇園祭といえば「動く美術館」とも言われるほど、各山鉾に飾られる懸装品が見事なのよね。織物や漆、彫刻、金具――どれもこれもため息もの。今でこそ「伝統工芸」とひとくくりにされがちだけど、そのどれもが、かつては最先端の美と技術の集大成だった。
江戸の町娘がファッション誌を見るような感覚で、京の人々は山鉾を見上げていたのかもしれない。
さて、明日は宵山本番。
わたしはまた別の日にそっと来ようと思う。賑わいの中にも、きっとどこかに、今日のような静かな瞬間があるはずだから。
そんな瞬間を見つけるのが、なんともたまらなく好きなのだ。