六杯目の盃をお供していただくのは、古人大兄皇子。舒明天皇と蘇我馬子の娘・法提郎女との間に生まれ、血筋としても期待の大きかった皇子です。蘇我蝦夷や入鹿からも皇位継承を望まれ、その名は一時期、次代を担う存在として大きく響いていました。
しかし、時代は思うようには進みません。乙巳の変で蘇我氏が滅んだ後、古人大兄皇子の立場は一気に不安定なものになります。中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が台頭し、政治の主導権を握り始めた飛鳥の政局。その中で、蘇我氏と結びつきの深い皇子は、次第に「危うい存在」と見なされるようになっていきました。
皇子は身の危険を察したのでしょう。出家して吉野の山へ入り、世を離れる道を選びました。けれども、それでもなお「謀反を企てている」という密告が飛び交い、ついには中大兄皇子の兵に襲われることとなります。戦うでもなく、逃げ延びるでもなく、ただ静かにその命を落とすことになった古人大兄皇子。血筋ゆえに期待され、血筋ゆえに疑われた皇子の姿は、飛鳥の政治の厳しさをそのまま映し出しています。

ここで、机の上に並んだ盃を手に取ります。
冷えた日本酒がつるりと喉を通り、お刺身の淡い旨味が口の中に広がります。魚の切り身の白さと、日本酒の澄んだ香りが、どこか吉野の清流の冷たさを思わせます。古人大兄皇子が身を寄せた山の静けさも、きっとこんな透明感を持っていたのでしょう。
吉野の山を訪れると、今も深い森と澄んだ水に囲まれた静寂が広がっています。そこに身を潜めた皇子の心中を思うと、ただの逃避ではなく、せめて最後に安らぎを求める場所として吉野を選んだのではないかと想像したくなります。
歴史の表舞台で光を浴びるのは、いつもほんの一握り。けれども、その光の陰で命を散らした者たちの存在が、飛鳥の時代の複雑さをいっそう深くしています。古人大兄皇子もまた、その一人でした。
盃を置いて、しばし黙します。酔い心地とともに広がるのは、歴史の哀しみ。飛鳥の夜風の中に、まだどこか皇子の静かな声が溶けているような気がします。