
宿に戻って、片口から盃へ酒を注ぐと、しずくが木の卓にこぼれた。これも旅の景色のひとつだと思えば、拭く手も急がない。口に含めば、ほのかな旨味が舌に広がる。外では、さっきまでの雨が音を潜めていた。窓の外を覗くと、雲間から街灯の明かりが差し、夜の松江が少しだけ顔を覗かせている。これは歩きに出ろ、というお誘いに違いない。

石畳を踏みしめて松江城へ向かうと、闇の中から白く光る天守が現れた。昼間は雨のせいで中に入れなかったが、こうして外から眺めると、むしろ夜こそが似合うようにも思う。慶長16年(1611)、堀尾吉晴が築いたこの城は、戦国の防御思想を色濃く残す実戦型。夜風に乗ってどこか遠くから太鼓の音が響いてくるような気がして、思わず
足を止めた。

城下を囲む堀川沿いを歩けば、川面に映る灯りが揺らめき、まるで水の底にもうひとつの町があるようだ。江戸時代、この水路は物資輸送の大動脈で、米俵や材木を積んだ船が行き来していたという。今は遊覧船が昼の観光客を乗せるだけだが、夜になると水音だけが静かに残り、時代の境目が曖昧になる。

橋のたもとで、柳の枝が長く垂れ下がっている。その向こうに見える灯りが、葉の隙間から水面へこぼれ落ちていく。柳は昔から城下町の風物詩で、夏の涼しさと同時に、幽玄な空気も漂わせる。松江には小泉八雲の怪談をテーマにした「ゴーストツアー」があると聞くが、この景色の中ではそれも自然なことのように思えてくる。柳が風に揺れるたび、どこからか見えない客人が現れそうな気配がした。