持統天皇のことを調べていると、「さらら姫」という現代のキャラクターに出会う。橿原市の観光親善大使だそうで、かわいらしいその名前は、持統天皇の幼名「鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)」にちなむという。なるほど、歴史というのは、こんなふうに静かに受け継がれているのかと、妙に感心してしまう。
鸕野讚良皇女は、のちの天武天皇となる大海人皇子の妃である。このふたり、夫婦というよりは、同志に近い絆があったように思う。壬申の乱――天智天皇の死後、後継者をめぐって繰り広げられた壮絶な戦い――のときも、彼女は戦場にあってただ待つのではなく、ともに決断し、動き、支え合ったという。ここにすでに、のちの「天皇」の資質が現れていたのではないかと、勝手にうなずく。
天武天皇が即位すると、鸕野讚良は皇后として政務に深く関わる。書いてしまえば一行で終わるが、これは並大抵のことではない。夫婦間の会話は、きっと夜遅くまで続いただろう。世の中のしくみをどう整えるか、律令制度はどうあるべきか、国の未来をどう描くか。そんな話が、灯りの消えたあとの寝殿で、静かに、しかし熱く交わされていたのかもしれない。
夫・天武の死後、息子の草壁皇子が後を継ぐはずだったが、早くに亡くなってしまう。悲しみにくれる間もなく、鸕野讚良は自ら即位し、持統天皇となる。
彼女が手がけた政策の数々は、実に実務的で骨太だ。飛鳥浄御原令の施行。藤原京への遷都。庚寅年籍の作成。中央集権国家としての礎を、ひとつひとつ丁寧に築いていった。
だが、明るい未来を夢見るだけでは、国は動かない。時に残酷な決断も必要になる。草壁皇子のライバルと目された大津皇子を自害に追い込んだのも、彼女の意志だったという。ここにひとつ、深い暗い谷がある。権力とは、なんと静かに人を追い詰めるものか。
持統天皇は、日本で初めて火葬された天皇でもある。土に還るのではなく、煙となって空へと昇るという選択。これは仏教への信仰のあらわれであり、また、ひとつの時代の象徴でもある。
さらら姫が観光ポスターで微笑んでいるのを見かけるたびに思う。この国の制度や文化の基盤を築いたのは、派手さも、華やかさもなく、静かに政務を積み重ねていった、あるひとりの人の、息の長い仕事だったのだと。
遠い昔のその姿に、今夜は少しだけ、盃を捧げたい。