三杯目の盃にお迎えするのは、竹田皇子。敏達天皇と推古天皇の子として生まれ、有力な皇位継承権を持っていましたが、若くして世を去ったと伝えられる皇子です。
名前こそ歴史書に記されていますが、その姿を浮かび上がらせる史料は驚くほど少なく、語られるのは「早世した」という事実ばかり。けれども、推古天皇が遺詔に従って竹田皇子と合葬されたと『日本書紀』に記されていることを思うと、母と子の深い絆が時を越えて伝わってくるようです。『古事記』には、もともと大野岡の上にあった陵を後に科長大陵へと移したことも書かれており、記録の断片をつなぐと、竹田皇子が確かに存在していたことが実感されます。
その舞台とされるのが、橿原市五条野町にある植山古墳。いまでは住宅街の中にひっそりと残る終末期古墳ですが、阿蘇ピンク石を遠く九州から運んできて石棺に用いたことが知られています。石を運んできた人々の労苦を思うと、竹田皇子の存在が決して小さなものではなかったことが感じられます。

写真は植山古墳からの眺めです。目の前に畝傍山がゆるやかに立ち、遠くには二上山の稜線が浮かんでいます。千数百年前、ここに眠る竹田皇子や推古天皇の魂も、きっとこの山々を見ていたのでしょう。飛鳥の皇族たちにとって、山はただの風景ではなく、祈りや魂の行き来の場でした。大和三山や二上山に沈む夕日を眺めれば、自然と心が静かに整っていく。そんな時代の空気を、この丘は今も伝えてくれているようです。
竹田皇子は、政治の表舞台に立つことも、大きな改革を残すこともありませんでした。だからこそ、「幻の皇子」と呼ばれるにふさわしい存在です。しかし、歴史に名を刻むのは華やかな功績ばかりではありません。早くに去った命もまた、飛鳥の歴史の一部として大切に記録され、母とともに眠るその姿は、やさしい哀しみをまとっています。

盃を傾けながら思います。長い歴史の中で、声高に語られる人もいれば、ほとんど言葉を残さないまま静かに去っていく人もいる。けれど、その沈黙の重みが、かえって深い余韻を与えてくれるのです。竹田皇子の名は、飛鳥の風と畝傍の山影の中に、静かに生き続けているのでしょう。